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“自然からとれる恵み、それで生きていくしかないです”

赤浜の漁師・新おおつち漁協組合長
阿部 力(つとむ40歳)

沿岸漁業から養殖に切り替えた漁師である父の後ろ姿を見て育つ。
ワカメ、昆布、牡蠣、ホヤの養殖を行う。阿部は、弟守(まもる)と共に、震災直後1週間で、いち早く漁を再開した。
2014年1月、39歳の若さで、新おおつち漁協組合長に就任。
震災後いちど破綻した漁協の再生に取り組む。
全国の支援に感謝のお返しをしたいと2012年に立ち上げた「ありがとうおおつちロックフェスティバル」の実行委員でもある。

“自然の力に勝てるものは何もない”

赤浜の復興を考える会会長
川口 博美 (66歳)

震災後半年で、住民が立ち上げた自治組織「赤浜の復興を考える会」の会長。
母、妻、孫の3人を震災で失う。
孫の翔也(当時4)の遺体は今だに見つからない。
2011 年8 月。「孫子の代まで安心して暮らすためには、高台に移転するしかない。自然にはかなわないんだから・・」と、「防波堤は6.4 m既存施設を修繕復旧。」との復興案を住民で作成。国と県から提示された、14.5mの巨大な防潮堤の建設を拒否した。

“今まで何十年も乗ってるけど、こんな漁は初めてです”

定置網統括責任者
小石 道夫

大槌は、新巻鮭の発祥の地。生まれて4年で帰ってくる鮭の定置網漁が漁の中心を占める。
小石は大謀と言われる統括責任者。2011 年、震災のがれきから入った菌により、2週間の意識不明。皆から「大謀さんがやらないと」との声に押され、2012 年9月、震災後初の定置網漁の水揚げを行った。
しかし、温暖化による海水温の上昇、孵化場の被災により稚魚が放流できなかった影響など、不安材料が立ちはだかる

“利益の幅はないけれど、それでも魚揃えないとウチから買ってるお客さんは困るでしょ”
“おれは生涯現役でやりたいと思ってる。とにかくやらねばっていう意地があるから”

芳賀鮮魚店店主
芳賀 政和

自分の船は震災で流され、水産加工業に専念。負けてたまるかと言う一心で2012年5月、水産加工事業者4社で「ど真ん中・おおつち共同組合」を設立。芳賀は、10 月から12 月まで、大槌特産の新巻づくりに忙殺される。10 日間手間隙かけた新巻づくりを30数年行ってきた。「定置の水揚げがあがらないと、先が読めない。でも、この仕事は続ける。お客さんがいる限り、倒れるまで。」と、大槌湾に浮かぶ蓬莱島(ひょっこりひょうたん島のモデル)を眺めながら語る。

“赤浜は海が見えるからいい”

阿部力、守、幸太の母
阿部 京子

沿岸漁業、養殖漁業を夫・忠雄と共に行い、息子3人を育ててきた母は、今、息子の漁を手伝う。三陸の漁の変遷を身をもって体験してきた。大槌では、1990 年初頭まで、北洋マスほかの遠洋漁業が盛んで、漁師は一攫千金を狙うことができた。しかし、200 カイリ以内の経済水域が設定され、沿岸漁業に切り替わり、その収穫も下がるにつれ、漁師の数は減り、漁業は衰退していった。そこに東日本大震災が起こり、震災と不漁のダブルパンチが立ち上がろうとする漁村を襲った。

“この中にわかめの芽があるんですよ”

赤浜の漁師、阿部力の弟
阿部守

2011年3月11日当時、3艘の船の1槽に乗り込み、沖に船を出した。「水深200m以上の沖に出たとき、むこうから土色の壁のような波が近づいてきて、一瞬で、船の底をボーンと通り抜けて行った。あれは怖かった・・・酸欠になったのか、魚がぷかぷか浮いてね。沖で一晩過ごしたとき、沖から赤浜をみたら狼煙があちこちから上がっていて、どうなってしまったのかとまんじりともできなかった。」その時守った船が、妙法丸である。兄弟の大切な財産である。

“海の中にも湧水がたくさんあります”
“構造物をつくるってことは、水の入れ替えが変わっちゃうってことなんで、必ず変化はあると思います”

総合地球環境学研究所
谷口真人

大槌は170 ケ所以上の自然の井戸が湧いていた。山の惠を受けた川は、地下30 mの地下水となり、 自噴の井戸として、人々の生活の中で息づいていた。谷口は、2011年から、海底湧水の調査を続け、2013年5月に、「海底湧水があること、陸と海のつながりが大槌では、特に強いことがわかった。」 2014年からは、地下水が海洋生物の成長をどう早めているかを、裏付ける実験を行っている。

関連サイト
岩手県大槌町:http://www.town.otsuchi.iwate.jp/
赤浜の復興を考える会:http://akahama.jp/
ど真ん中・おおつち協同組合:http://www.domannaka.com/

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