INTRODUCTION

“悪”は人々の美しい思い出まで支配できるのだろうか?
数百万人の死者が眠る大地から作られた人形たちと、狂気により葬られたフィルムが、
いま、光と闇の記憶を語り始める――

映画監督リティ・パニュは、幼少期にポル・ポト率いるクメール・ルージュによる粛清で最愛の父母や友人たちを失った。クメール・ルージュ支配下に数百万人の市民が虐殺され、カンボジア文化華やかし時代の写真や映像はすべて破棄された。その失われた映画や写真は果たして甦るのだろうか? 奇跡的に収容所を脱出し映画監督になったリティ・パニュは「記憶は再生されるのか」というテーマを追求し、あの体験をいまに伝えることを自らに課してきた。そして本作でひとつの答えに辿りつく−−−−。犠牲者の葬られた土から作られた人形たちが、35年前の虐殺の成り行きを語り始め、発掘された映像によってその悲劇が紐解かれていくのだった。

世界がディスコや『スターウォーズ』に夢中になっていた時代、
カンボジアで何が起きていたのか――
15歳でクメール・ルージュの大虐殺から生き延びた少年が到達した、
かつて誰も見たことがない光景

昨年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉で上映、名匠リティ・パニュが初めて自らの過酷な人生を、土人形に託して描いた作品として絶賛されグランプリを受賞した。繰り返される人間の愚かさと醜さを、それとは正反対の繊細さと表情豊かな人形で表現し、本年度のアカデミー賞外国映画賞にカンボジア映画として初めてノミネートされ、公開が熱望されていた『消えた画 クメール・ルージュの真実』。 フィクションとドキュメンタリーというジャンルを超えて、これまで数多くの作品でカンボジアの悲劇を描いてきた、リティ・パニュ。カンボジアの幸せな家庭に育ちながら、クメール・ルージュの支配により、たったひとり15歳でカンボジアを脱出するという、誰も経験したことのない人生を本作で初めて描いた。

「すべてのファシズムはウソから始まる」
なぜ、歴史は繰り返されるのか?

1975〜1979年 カンボジア クメール・ルージュによる虐殺の記憶――
色鮮やかなカンボジアの文化が、クメール・ルージュによる“黒”と紅い旗とスカーフだけの世界に突然、一変する。人形と交互に現れるプロパガンダ映像に登場するポル・ポトはいつも笑顔だ。ベトナム戦争を背景とした冷戦下の大国の対立に端を発した、クメール・ルージュによる悲劇。なぜ、陰惨な歴史は繰り返されるのだろうか。リティ・パニュとフランス人作家、クリストフ・バタイユによって書かれたことばが、犯罪と歴史の記憶を暴いていく。

クメール・ルージュとは?
クメール・ルージュとその時代 新谷春乃(東京大学大学院)

クメール・ルージュは1975年4月17日から1979年1月7日までカンボジア(当時の国名は民主カンプチア)を統治した勢力の通称であり、ノロドム・シハヌーク元国王が武闘派左翼勢力に対して名づけた呼称が定着したものである。そのトップは1963年以来「ブラザー・ナンバー・ワン」であるポル・ポト(本名サロト・サル)であった。ポル・ポトは富農の家に生まれ、1950年前後に3年間フランスへ留学する。この時期に、イエン・サリ、らクメール・ルージュの最高幹部と出会い、共産主義に傾倒していく。カンボジアに帰国後、教員をしながらクメール人民革命党の地下活動に参加する。1963年には党書記となり、66年には党名を「カンプチア共産党」へ変更した。その前年、中国へ訪問したポル・ポト一派は毛沢東思想に触発され、自らの統治思想に適用した。カンボジア国内ではシハヌークによる共産主義者への弾圧が激化し、ポル・ポトらはカンボジア東北部の少数民族居住地域に潜伏することを強いられた。冷戦が過熱する中で、中立主義をかかげるシハヌークの統治体制にかげりが見られ、ロン・ノルら体制内の右派勢力が台頭してくる。1970年3月18日、シハヌークの外遊中を狙い、米国を後ろ盾としたロン・ノルがクーデタを起こした。ロン・ノルの統治下、カンボジアは汚職による政治腐敗、内戦による国土の疲弊に苦しんだ。農村部ではベトナム戦争の余波による米軍の空爆によって村々は破壊され、反米反政府の立場からクメール・ルージュに参加する人々が増えた。特に若者の参加が急増した。都市は農村部からの避難民であふれかえった。クメール・ルージュは解放区を徐々に拡大し、ロン・ノル政府の支配域は都市部に限定された。1975年4月17日、首都プノンペンが陥落し、クメール・ルージュが政権を握る。
クメール・ルージュが統治した民主カンプチア体制は、当時のカンボジアの人口約700万人の内、約150万人が犠牲になったとして、その被害規模の大きさから国際社会の耳目を集めてきた。ポル・ポトを筆頭とするカンプチア共産党中央委員会は、毛沢東主義に基づいた政策を実施し、カンボジア経済を停滞させた。知識人は排斥され、私的所有権はなく、様々な伝統文化が禁じられた。クメール・ルージュが都市部に入城すると、都市部にいた人々は、すぐに農村部へ強制移動させられた。この時に都市部から移住させられた人々は「新人民」と呼ばれ、多くが過酷な労働条件の地域に送られた。一方4月17日時点でクメール・ルージュの支配地域に住んでいた人々は「旧人民」と呼ばれ、新人民と比べて被害は小さかったと言われるが、被害の規模は管区ごとに異なっているために一概には言えない。農村部では、性別と年齢に応じて集団化が進められた。これらは共産党を母体とし、国家諸機関を包括する組織「オンカー(クメール語で組織という意)」によって担われた。「オンカー」は子どもスパイを配置するなど、人々の生活を監視した。各地に政治犯収容所が行政単位に応じて作られ、「内部の敵」に対する粛清を行った。「内部の敵」には旧体制関係者だけでなく、知識人や「オンカー」を裏切ったとみなされた一般人も含まれていた。「S21」と呼ばれる首都プノンペンにある最高位の政治犯収容所では、ポル・ポトの側近はもとより、クメール・ルージュに長年参加してきた古参革命家も、「裏切り者」として殺害された。対外的には、親中・反越政策をとり、中国から多額の軍事支援や経済支援を獲得した。ベトナムに対しては、政権獲得の直後から度々国境衝突を繰り返した。全国で内部粛清が横行し、各地でクメール・ルージュから離反する幹部が増えた。1979年1月7日、ポル・ポトらによる粛清から逃れるためベトナムに渡ったベトナム国境付近の東部管区出身者を中心とするカンプチア救国団結戦線とベトナム軍の進攻により、民主カンプチア体制は崩壊した。
体制崩壊後、国外退避を求める人々はタイ国境沿いの難民キャンプへ向かった。これらの人びとも含めたインドシナ難民の受け入れは世界中で行われた。日本も定住枠を徐々に拡大し、インドシナ難民の受け入れを2005年末まで継続した。

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