ストーリー


厳しい冬と短い夏の街、函館。佐藤はこの街に生まれ育ち、20歳まで過ごす。 父母は青函連絡船を往復して、青森産の黒石米を運び、函館で売りさばく「担ぎ屋」として生計を立てた。幼いころから作文を書いた佐藤は、中学2年の文集に「芥川賞作家になる」と将来の目標を書いている。 佐藤泰志の物語は、「きみの鳥はうたえる」が芥川賞候補になった1982年1月から始まる。


【第一章 きみの鳥はうたえる】

前年3月に母 幸子の体調が優れないため、泰志は妻と子供二人を連れて、函館に戻った。職業安定所で紹介された「職業訓練校建築科」に通った。 「きみの鳥はうたえる」が芥川賞候補になり、地元函館の毎日、読売、北海道、共同、NHKの記者が証言する。泰志の初対面の印象は「暗くボソボソっと喋る」記憶を持つ。芥川賞選考会当日、函館の実家で結果を待つ泰志。一方東京・築地の料亭では、芥川賞選考会議が開かれ、計8作品について、喧々諤々の議論が行われた。 選考はもつれ、結果の連絡を待つ実家では、母が取材のお礼にと寿司と酒を記者達に振る舞った。結果は「該当作なし」。佐藤は作家として生きる道が開けたことから、再び東京に戻ることとなる。



【第二章 多感な青春】

昭和41年、1966年。佐藤泰志は函館西高校2年になっていた。 この秋、小説「青春の記憶」で第4回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。戦時下の中国を舞台に若い日本兵の苦悩を描いた。泰志は高校3年間文芸部に所属し、独自に執筆活動をし、投稿を重ねていた。泰志の周りには遊び仲間がいて、その仲間と受賞を祝う会を高校近くの青柳町会館で開いた。日本酒を飲み交わした帰り道、地まわりといざこざが起き、全員警察に呼ばれた。仲間の父親の努力があって、かろうじて学校への通報は免れた。少年課の警官からは、「お前たち、祝い事はジュースかコ―ラにしとけよ」とたっぷりお灸をすえられた。3年になると、担任の長谷川の結婚式の日に、学校の屋上で喫煙が見つかり停学2週間に。さらに禁止されていたパチンコ店にいるところを見つかり、無期停学となる。まもなく行方が分からなくなる=家出事件が起きる。長谷川の声かけで同級生が青函連絡船の乗船名簿を調べるが見つからない。それもそのはず、泰志は札幌に向かい、翌日帰って来る。札幌のテレビ塔のレストランでカレーを食べたら、すっきりしたと友人に語った。卒業が危ぶまれる中、長谷川先生が献身的なサポートをし、一方泰志は小説を書いた。この頃は「政治の季節」。ベトナム反戦に加え、防衛大学校入試説明会阻止闘争が勃発。その渦中「市街戦の中のジャズメン」(後に「市街戦のジャズメン」と改題)を書き、第5回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。しかし内容が高校生にふさわしくないという理由から、新聞掲載はならなかった。まもなく選者の作家 澤田誠一が主宰する「北方文芸」で紹介された。停学は5週間に短縮され、出席日数も足りたことで、泰志は無事卒業。長谷川は泰志の頑張りを称え、思わず涙をみせた。  そして2年後、泰志はこれまで見続けてきた青函連絡船に乗って上京した。



【第三章 作家への道】

国学院大学に進んだ泰志は、函館西高校の同期生らと同人誌「黙示」を発行。「黙示」という題は泰志がつけた。小説、詩だけでなく、漫画や政治評論まで間口が広かったことから、文学作品で構成したいと考えた泰志は突如6号で離脱。新たに高校の後輩達と「立待」を発行した。ふるさと函館にある立待岬から取った。大学4年間は、「立待」と共に「北方文芸」にも小説を書いた。学生結婚した泰志は、卒業(1974)後、市役所を15カ所受けたが落ちてしまった。アルバイトをしながら、作家への道を目指した。1976年、「深い夜から」が第一回北方文芸賞佳作となる。翌年頃から精神の不調を訴え(自律神経失調症)、以後精神安定剤を飲み続け、療法として体操やランニングを続けた。上京から10年経った1980年、「もうひとつの朝」が「作家賞」受賞。長女、長男にも恵まれ、四人家族となっていた。函館での生活(1981~82)を経て、再上京。 1983年~1985年にかけて、「空の青み」「水晶の腕」「黄金の服」「オーバー・フェンス」と計5回、芥川賞候補となるが、受賞は叶わなかった。小説を書き続ける合間に、「アルバイトニュース」のエッセー、書評、放送時評、文芸誌新人賞の下読みなどの仕事をした。1990年初の長編「そこのみにて光輝く」で第2回三島由紀夫賞候補となるが、落選。選考委員江藤淳は「少数意見」を書いた。



【第四章 海炭市叙景】

1988年から36篇の連作を構想する「海炭市叙景」を文芸誌「すばる」に断続的に掲載。しかし1990年「すばる」4月号掲載の「楽園」で終わった。構想した全36篇の半分だった。泰志は「海炭市叙景」に掛ける思いを親しい新聞記者に手紙を書き送っていた。 「今度僕は、海炭市叙景の中でその街に様々な形で住む人々を36人書くことで、区切りをつけたいと思います」泰志は1988年3月に廃止となった青函連絡船について「青函連絡船のこと」を書いている。「・・・・・実は僕は函館に生まれ、20歳まで暮らした。両親は戦後からずっと真夜中の連絡船で青森へ行き、闇米を何俵も担ぎ朝の連絡船でトンボ返りし、朝市で売りさばいて生活の糧としてきた。北海道は寒冷地で米の品質が悪く、かつぎ屋という言葉が死語となってからも、この商売はすたれることがなく、30年近く連絡船を自ら生活の場としてきた。大学入学のために上京した僕は、時々両親の職業を尋ねられ、いささかの誇りを持って闇米のかつぎ屋だ、と応えたものだが、一体いつの話をしているのだとあきれたような顔をされるのが落ちで、自分でうんざりすることがしばしばあった。・・・・・・少年時の僕の愉しみといえば、函館湾の岸壁で小さな毛ガニをイカの足で釣ることで、随分熱中したものだ。2,3時間でバケツ一杯の収穫があったが、そんな時連絡船が湾に入って来るのを見掛けると、胸がある種の軋みを伴って弾んだものだ。まばゆいばかりの海面と、堂々たる姿を見せて近づく連絡船を、確実にその船に両親が乗っていること、海を隔てて彼らと僕は間違いなく一本の線でつながっていることを、たぶん少年のおぼつかない心でも確信し得る一瞬だったように思う。・・・・」

佐藤泰志は41年の生涯を終えた。佐藤泰志が遺した数々の作品と、その世界を未知なる読者に語り継ぎ、読み継がれることを希いたい。



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