監督:菅乃 廣 オフィシャルコメント


愛と挫折の物語

2011年3月11日の東日本大震災で被災し、これに誘発されて3月12日に発生した、福島第一原子力発電所で、1号機と3号機が水素爆発。3月19日以後は、原発事故の影響を受けて住民の避難が必至となり、約1,200人の被災住民は役場の機能ともに避難。以降、立入禁止区域に指定、死の町と化しています・・・。

私の出身地は福島第一原視力発電所から50~60キロ離れた場所です。避難地域には指定されていません。町の人は、普通の生活をしています。しかし、植物が巨大化するなどの異常に不安を感じながらも、安全だという政府の情報を信じて平静を保っています。そして政府は、経済成長のため原子力発電の海外への輸出を推進する・・・国家がしきりに強調する「安全」という情報に翻弄される人々・・・第二次世界大戦中、「日本が戦争で有利になっている」と国民を思いこませた国家による情報操作・・・組織の利益が優先され個人が犠牲になる社会・・・戦争に突き進む狂気と、未だに原発に執着する狂気・・・基本的な日本の構造は、第二次世界大戦から70年たった今でも、何ら変わりがないのではないか・・・。

過去の因果が次の世代に影響を及ぼし、その時の因果が更に次の世代に影響を及ぼす・・・ウランの核分裂の際に起こる連鎖反応のように、過去の因果が伝播していく・・・このような手法で表現する愛と挫折の物語です。



脚本:井上淳一 オフィシャルコメント


忘れてはいけない、だけど、赦してもいい

たぶん、あの日を体験した表現に関わる者の多くが、これからは否応なく「3.11」後を意識せざるを得ないし、意識しない作品に何の意味があるのだろう、くらいのことは思ったはずだ。もちろん僕もその一人だった。しかし、実際に3.11モノの仕事が来た時には迷った。もう少し正直に言えば、イヤだった。理由は二つある。その仕事が来たのは、2011年の晩夏。あの日からようやく半年が過ぎようかという頃だった。まだ半年。表現に足るほど、僕の中で3.11も3.11後も熟してはいなかった。ただでさえ、実際に被災した方の側に立つのは難しい。果たして自分はその痛みや喪失感を想像し、表現できるのか。いや、そんなものが表現可能なのか。それをクリアしなければ、3.11モノなど作る意味などないし、雨後の筍のように生まれてくるであろう、その手の作品の中に埋もれてしまう。それが、ひとつ。もうひとつは、いくら論を重ねようが、映画を作るということは商売をするということだからだ。お金を儲けることを良しとするに足る、表現すべきものが果たして自分の中にあるのか。

しかし、僕は書いた。その結果は、作品を観て判断していただくしかないが、それでも、この作品を書いて良かったと思うことがある。シナリオを書き上げたのは2011年の年末だが、その時点でさえ、3.11直後は暗かった東京の街は明るさを取り戻し、震災も原発もその一年を振り返るニュースの中でしか取り上げられることがなくなっていた。そして、三年。都知事選で脱原発は争点にならず、五輪招致のスピーチでダダ漏れの汚染水を尻目に「福島はアンダーコントロール」と平気な顔でうそぶき、原発再稼働に邁進する首相の支持率は未だ高い。人は忘れる生きものである。その中でも日本人はことさら忘れやすい生きものなのか。被災地と我々は地続きである。そして、過去からの時間もまたずっと続いている。福島になぜ東京に電気を送るための原発が建てられることになったのか、我々はそれを忘れてはいけない。最低限、そのことだけは語ることができたのではないかと思っている。

最後にタイトルについて。この作品は大島渚監督のデビュー作にして傑作『愛と希望の街』(1959)を平仮名にしたものだ。大島渚は当初、階級差は決して埋まることはないというテーマのこの作品を『鳩を売る少年』と名付けていた。しかし、会社から反対され、大島は反語的にこのタイトルを付けた。だから、実際に映画の中で描かれている世界は「愛も希望もない街」なのだ。この映画のタイトルを付けるとき、どうしてもこれ以上のものは思い浮かばなかった。平仮名にしたのは、55年前よりいまの方がより問題がよりソフトになり見えにくくなっているのではないか、と思うからだ。ただ、それだけではない。やはり、「あいもきぼうもないまち」にではなく、「あいときぼうのまち」に住みたいと僕は思う。それは、この作品の底に流れる、忘れてはいけない、だけど、赦してもいい、という祈りにも似た願いに通じている。

そして、もうひとつ。昨年は大島渚が、一昨年には新藤兼人と若松孝二が死んだ。いま、この三人が座った席がポッカリ空いている。いま、このような時代になり、その席に誰かが座らない限り、席そのものがなくなってしまう可能性が高い。僕が座れるか否かではなく、誰かがエントリーしなければいけないと思う。そういう意味においても、このタイトルを付けたことは間違っていないと信じたい。



プロダクションノート


原発を扱う作品は作ってはいけないのか?

「あいときぼうのまち」が企画されたのは2012年。当時は(今でも)、原発を扱う作品はタブー視されていた。東京電力が年間200億円もの広告料を出すスポンサーということで、広告業界や映画業界では、東京電力を擁護する風潮があったからだ。作り手としては納得のいかないことだが、一番困ったのはキャスティング。「原発」を扱った作品と分かると、大手の芸能事務所からはCM出演に影響が出ると懸念されて協力を拒否された。そんな逆風の中で、西山愛子役を快諾してくれたのは夏樹陽子。夏樹は、「被災地のために何か役に立つことがしたい」とこの作品の趣旨に賛同してくれて、何とか撮影に入ることができた。

撮影の大部分は震災の爪痕が残る福島県・いわき市で

第一原発があるのは福島県双葉郡。撮影時は、第一原発から20キロ圏内は立ち入り禁止。撮影は、2012年11月から福島県・いわき市で行い、そのあと東京のシーンは東京で撮影した。
いわき市は、福島第一原発から約40キロの距離だが、1号機、3号機が爆発を起こしたときの風向きの影響で、福島県内では比較的放射能の被害を免れた地域。放射線量は首都圏の高い場所とあまり変わらない量のレベル。だが、福島 = 放射能のイメージが強いので、いわき市も放射能で汚染されたという誤解があり、いわき市で撮影というと「放射能が怖いから出たくありません」と出演を打診した役者から断られたことも。
震災の影響としては、海に面したいわき市も、例外なく津波の被害を受けた地域。特に海水浴場だった薄磯海岸は津波でほとんどの建物が流されて土台だけになった状態。そのほかの海岸も、砂浜が半分ぐらい海に沈む地殻変動が起きたという。

広いいわき市でロケハン地獄

いわき市は、人口が34万人。面積は1,231.35km²。人口、面積とも福島県では1番の都市。かつては、札幌市に続いて全国で2番目に面積が広い市だった。また、映画『フラガール』の撮影が行われたことで知られ、市内には昭和を思わせる景色が現存している。海もあり山もあり、映画の大部分はいわき市内のロケで済ませることができた。
ということで、いわき市の隅から隅まで回ってロケハンをしたが、そのとき各ロケ地を紹介してくれたのが、「いわき観光まちづくりビューロー」の皆様。この物語は、「1945年」「1966年」「2011年・2012年」と3つの時代が登場し、ロケ場所も通常の映画よりもかなりの数が必要。1日中車での移動が何日も続き、かなりハードなロケハン。特に、戦争中の「1945年」の農家の家はどうしようか途方にくれたが、「いわき観光まちづくりビューロー」のスタッフは、ちゃんとイメージ通りの場所を見つけてくれた。農産物をPRする物産展で各地を飛び回って忙しい中、嫌な顔一つ見せずに付き合っていただき、東北の人の人情に触れた気分だった。

薄磯海岸のカラーペイント

劇中、東京の西山怜と沢田がレンタカーで南相馬を訪ねて行くときに訪れた海岸は、いわき市の薄磯海岸でロケ。コンクリートの土台にカラフルなペインティングが施されているのが印象的だと思いますが・・・これは、もともとこの海岸にあったもので、地元の美大生が、復興のためにとコンクリートの土台にペインティングを施したもの。震災前、薄磯海岸は海水浴場としてにぎわっていた海岸だったが、津波の被害で、原っぱのようになってしまった。何人もの人も亡くなっている。将来的にはこの土地を自治体が買い上げて大きな公園になる予定という。この景色が見られるのは映画の中だけになるかもしれない。

ウランの採掘は学徒動員の中学生によって行われた

第二次世界大戦中、福島県の石川町では原爆開発のためにウランの採掘が行われていた。第一原発から約50キロメートル離れた位置になる。作業に駆り出されたのは、石川中学の中学生。当時石川中学の現場は、実際の当時は鉄が不足していて、ツルハシも数が足りない状態。仕方なく木の棒で掘ったり、素手で掘ったりしたという。中学生たちは必死で頑張ったが、当時の陸軍の技術では、実際に原子爆弾をつくることは不可能だったらしい。草野英雄役を演じた杉山裕右は、実際にウランの採掘をした人からツルハシの握り方などを聞いて、当時の様子を再現している。ちなみに、当時は真夏でも詰襟の学生服を着て作業をしていたが、劇中では演出上白いシャツに変更した。
学徒動員のエキストラとして参加してくれたのは、地元の中学校の野球部の生徒。ワラジ履きだと、地面の石を踏むと足裏が痛くなるのだが、痛さを我慢してもらっての撮影だった。さすが野球部で、誰一人根をあげずにエキストラをこなしてくれた。

沢田の募金箱

渋谷での撮影で、沢田が募金箱を首から下げて、街角に佇むシーン。撮影の休憩中でも劇中で使った看板をそのまま立てていたら、本当に沢田役の黒田耕平に募金をする人がいた。渋谷を歩く人でも、福島に対して関心が高いことをあらためて知った。

「潮騒」みたいな小屋

「なんか潮騒みてぇだな」のセリフが登場する、16歳愛子と16歳健次が密会する古ぼけた漁師の小屋。この小屋は撮影のためにいわき市の鮫川河口に建てられた。最初はイメージに近い小屋を探そうとしたが、津波で海岸の建物はすべて流されてしまい、小屋のような建物は残っていなかったからだ。小屋を建てるといっても、美術スタッフ1人では撮影に間に合わないので、鮫川河口に住む大工さんに手伝ってもらって何とか完成。次は40年後の小屋がないシーンを撮影するため、せっかく立てた小屋をすぐに解体。出来栄えがよかっただけに、壊すのが非常にもったいない思いだった。

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